
キャリア思考の沼 ― 虚構に支配される私たち
「キャリアアップ」「市場価値」「転職活動」。これらの言葉は、現代人にとって避けて通れないキーワードとなっている。だが本当にキャリアの追求は幸福に直結するのだろうか。むしろ私たちは「キャリア」という虚構を盲信しすぎているのではないか。
この「虚構」という視点を理解するうえで参考になるのが、世界的ベストセラーとなった歴史書『サピエンス全史』である。人類の進化と繁栄を「虚構を信じる力」という切り口から描いたこの本は、キャリア思考を相対化するうえで重要なヒントを与えてくれる。
『サピエンス全史』とは何か
イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが著した『サピエンス全史』は、人類がいかにして地球を支配する種となったかを描いた書物だ。その核心は「虚構(フィクション)」という概念である。国家、貨幣、宗教、法律、企業。これらはすべて人間が共同で信じる“物語”に過ぎない。しかし、この「虚構」を共有する力が、大規模な社会を成立させ、人類の繁栄を可能にしたと説く。
キャリア思考という現代の宗教
この視点を借りれば、現代社会で人々が信じて疑わない「キャリア思考」もまた一つの宗教とみなせる。
キャリア思考の宗教的構造
- 教義:「常に自分の市場価値を高めよ」
- 儀式:資格取得、転職活動、自己啓発
- 聖典:ビジネス書、キャリア本、成功哲学
- 救済:高収入、安定、地位
キャリアは「信仰の対象」と化し、人々を突き動かしている。しかし宗教と同じく、救済は約束されない。信じれば信じるほど、不安や焦燥に取り憑かれることも少なくない。
キャリア思考の罠
キャリア思考に溺れると、次のような落とし穴に陥る。
1. 終わりのない競争
市場価値は常に他者との比較で決まる。上には上が存在し、ゴールは見えない。
2. 幸福の先送り
「今」を犠牲にし、「未来のため」に生きることが常態化する。気づけば幸せは常に先延ばしにされる。
3. 普遍性という幻想
「誰にとってもキャリアが幸福の鍵」という前提は虚構にすぎない。人生の意味は人によって異なる。
幸福をどう考えるか
『サピエンス全史』が示したように、虚構は人類を進歩させた力でもある。問題は、それに支配されるか、利用するかである。キャリアもまた、上手に扱えば人生を豊かにするツールになり得る。
キャリア思考から抜け出すための視点
- キャリアをツールに格下げする:目的は「良い人生を生きること」であり、キャリアはそのための手段にすぎない。
- 幸福の独自指標を持つ:他人の物差しではなく、自分が「今日は良かった」と思える瞬間を基準にする。
- 人間関係と時間の質を優先する:研究が示すように、人の幸福はキャリアよりも関係性と時間の使い方に左右される。
- 虚構を意識的に利用する:キャリアもまた便利な虚構に過ぎない。信仰ではなく、利用する態度を選ぶ。
結論 ― 沼の岸辺に立つ
キャリア思考の沼に沈むのではなく、その岸辺で休みながら、自分なりの幸福を定義して歩んでいくこと。キャリアを目的化した瞬間、人は虚構の奴隷となる。だがキャリアをツールとして位置づけ直したとき、それは人生を豊かにする道具に変わる。
虚構を見抜きつつ、それをどう利用するか。そこに、現代を生きる私たちの知恵と自由がある。



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