ペトラ遺跡探訪記 1日目 ― 砂漠の峡谷を抜けて

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目次

プロローグ|“シェイク・イブラヒム”が見た最初の光景

1812年、砂岩の峡谷を抜ける巡礼者の列に、見慣れない若い男が紛れていた。名は――少なくともその土地で名乗っていた名は――シェイク・イブラヒム・イブン=アブドゥッラー。実際の身元はスイス・バーゼル出の探検家 ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトである。彼はアラビア語を習得し、装束や作法を徹底して身につけ、現地民になりきった上で、ベドウィンの案内を得てワディ・ムーサからシークへと進んだ。やがて視界が開け、岩壁に穿たれた巨大な正面――エル・ハズネ(宝物殿)――が突如現れる。その瞬間を彼は日記に記し、西欧世界へ「砂漠に眠る都」の存在を報せることになる。

ブルクハルトの一次記録『Travels in Syria and the Holy Land』(1822)は峡谷の曲折や岩肌の色調、水路跡や宝物殿の視覚的効果を冷静に描き出している。その一説はこうだ。

(原文)
“At the end of this defile, the valley opens suddenly, and the sight of the temple, which is cut out of the rock, strikes the traveller with surprise and admiration.”
(出典:Burckhardt, Travels in Syria and the Holy Land, London, 1822)

(日本語訳)
「この峡谷の終わりで谷は突然開け、岩を刻んで造られた神殿の光景が驚きと畏敬の念をもって訪れた者を打ちのめす。」



現地で露骨な測量やスケッチは危険だったため、祈祷や休憩の合間に断片的に書き留め、カイロ帰還後に体系化したと見られる。再発見という言葉が用いられるのは、彼が西欧学界へ確証と連続的記述を持ち帰り、後続の測量・素描(1828年のラボルドら)や19世紀後半の考古調査へと接続する“起点”をつくったからだ。

その後、ローマ劇場や王家の墓群、灌漑・導水のシステムが次々と記録され、20世紀以降に発掘が進む。しかし、都市の大半はいまも砂と岩の下にあるとされる。学術的な進展があっても、全体像は露出部分の一部(一般に1割台と見積もられることが多い)にすぎない――この「見えているのはごく一部」という事実が、旅人の想像力をいまも掻き立てる。

コラム①|なぜ発掘は1世紀も進まなかったのか

1812年にブルクハルトが西洋にペトラの存在を知らせて以降、旅行者や画家は断続的に訪れた。1828年にはフランス人のラボルドリナンが素描を残し、1830〜40年代には画家デイヴィッド・ロバーツが幻想的な版画をヨーロッパに広めている。だがそれはあくまで「旅の記録」に留まり、本格的な考古学調査へとは発展しなかった。

その理由は幾つか考えられる。第一に、当時のペトラはオスマン帝国支配下の辺境地であり、治安や許可の問題から外国人が長期調査隊を組織するのは難しかった。第二に、遺跡の洞窟や建造物はベドウィンの住居や家畜小屋として利用されており、外部の干渉は警戒された。西欧の研究者にとっては敵対を避けるべき相手で、積極的な発掘を行える環境ではなかった。

さらに学問的背景として、19世紀の考古学界はエジプト、ギリシャ、メソポタミアといった古典文明に注目が集中していた。ペトラは「東方旅行記の舞台」としては人気があったが、資金や学界の関心を集める対象にはなりにくかったのである。

こうしてペトラは、ブルクハルト以降も「画家や旅行者が訪れる幻想の都」として語られるにとどまり、1930年代に至ってようやく本格的な発掘調査が開始された。再発見からおよそ1世紀、遺跡は砂岩の峡谷に眠り続けたのだ。

ペトラ遺跡 エル・ハズネ 正面柱廊(デイヴィッド・ロバーツ1844年リトグラフ) 
出典:David Roberts, “Temple called El Khasne, Petra (March 7 1839)”, lithograph after his travel sketch, 1844. Library of Congress – Public Domain.
ラボルド&リナン エル・ディルの版画
出典:Léon de Laborde, “Le Deir, Petra,” plate from Voyage de l’Arabie Pétrée, 1830. Public Domain.

コラム②|ベドウィンとは誰か

ベドウィン(Bedouin)とは、アラビア語の「バディヤ(砂漠)」に由来し、「砂漠に生きる人々」を意味する。古くからアラビア半島やシリア砂漠、北アフリカの乾燥地帯を移動しながら、ラクダや羊を飼い、遊牧的な生活を営んできた。部族ごとの強い結束を持ち、詩や歌、口承伝承を大切に守り続けてきた民族でもある。

ペトラ遺跡のあるヨルダン南部でも、ベドウィンは古代の洞窟や墓所を住居や家畜小屋として利用してきた。19世紀に西欧の探検家が遺跡を訪れたとき、外部の調査を警戒する彼らの存在は、発掘が進まなかった要因の一つでもあった。

今日では多くのベドウィンがペトラ観光に携わっている。ラクダやロバによる移動サービス、土産物販売、ガイド業などを通じ、遺跡と共存しながら生活を営んでいる。かつて「遺跡の住人」であった彼らは、いまや「遺跡の守人」としてペトラの風景の一部になっている。

シーク(峡谷)の入口

ワディ・ムーサからペトラへ

首都アンマンからバスで3時間、ペトラ探訪の拠点となるワディ・ムーサへ到着した。
ペトラ遺跡入り口にて入場料を支払い。シークへ向かう。

ちなみにペトラ遺跡の入場料は世界一高いと言われている。1日券~3日券があり価格帯はこの通りだ。
通貨単位はヨルダン・ディナールとなる。
1日券:50JOD(日本円 約10,800円)
2日券:55JOD(日本円 約12,000円)
3日券:60JOD(日本円 約14,300円)

ペトラ遺跡は観光者向けに整備されている区画だけでも広大である為、2日券、3日券を圧倒的にお勧めする。広大であるが故に1日あたり20Kmは歩く羽目になる。

入口を通り抜けるとシークへ繋がるこの景色に出迎えられる。ここから探訪が始まる。

先述のブルクハルトとの感動を味わうために同じ道を辿る。ワディ・ムーサから歩き始めると、全長1.2kmのシークが姿を現す。両側の砂岩の壁は高さ80メートルに及び、空を覆い隠す。狭い峡谷を進むにつれ、頭上の光は細くなり、周囲は静けさに包まれる。岩壁には古代ナバテア人が刻んだ水路が続き、都市の仕組みを想像させる。

1812年、ブルクハルトもまたこの通路を進み、谷が突然開ける瞬間を目にした。そのときの驚きを彼は『Travels in Syria and the Holy Land』に「岩を刻んだ神殿の光景が旅人を驚きと畏敬の念で打つ」と記している。200年を経た今も、その印象は訪れる者に同じ感覚を与えている。

エル・ハズネ(宝物殿)の衝撃

突如として現れる都の象徴

峡谷の出口が近づくと、砂岩の柱頭が視界の隙間から覗き、やがて巨大な正面壁が姿を現す。これがペトラ遺跡を象徴するエル・ハズネだ。高さ約40メートルの彫刻群は、ヘレニズムとナバテア文化が融合した独自様式を示している。

都市伝説と墓所の説

「宝物殿」という名は、財宝が隠されていると信じた伝承に由来する。実際には王墓であった可能性が高いが、内部は質素で、用途についてはいまだ議論が続いている。財宝伝説は今も観光客を惹きつける要素となっている。財宝伝説については、関連記事でも紹介している。

関連記事:ペトラ遺跡とナバテア人の謎 ─ シルクロードに消えた王国と都市伝説【発掘はどこまで?】

円形劇場と都市の広がり

ローマ様式の影響

エル・ハズネを後に進むと、岩を削り出した円形劇場が姿を現す。収容人数は約8,000人。ナバテアの建築技術にローマ様式が融合し、都市の繁栄を象徴している。実際に目の当たりにするとかつての交易都市のざわめきが甦るようだ。商人や旅人が行き交った古代の息吹が、今なお砂岩に刻まれている。

1日目のまとめ

ワディ・ムーサからシーク、エル・ハズネ、円形劇場へ――ペトラ遺跡探訪初日はブルクハルトが辿った順序をなぞる旅だった。峡谷の暗闇と光の演出、突如現れる宝物殿の衝撃、都市の広がりを示す劇場。これらは「砂漠に眠る都」と呼ばれる所以を改めて実感させる。
次回はさらに奥へ、王家の墓群、高台の祭壇、そして修道院エル・ディルを目指すことになる。

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よくある質問(FAQ)|ペトラ遺跡探訪記・1日目

Q1. ペトラ遺跡は誰によって再発見されたのですか?

A1. 1812年にスイス人探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトが、アラビア装束で「シェイク・イブラヒム」と名乗りシークを通過し、西欧に存在を報告しました。

Q2. エル・ハズネ(宝物殿)は本当に宝物庫だったのですか?

A2. 「宝物殿」という名前はベドウィンの伝承に由来します。実際には王墓であったと考えられていますが、用途については学界でも議論が続いています。

Q3. ペトラ遺跡の入場料はいくらですか?

A3. 最新の料金では1日券が50JOD(約10,800円)、2日券が55JOD(約12,000円)、3日券が60JOD(約14,300円)です。広大な遺跡のため2日券以上がおすすめです。

Q4. ペトラ遺跡はどれくらい発掘されているのですか?

A4. 全体のごく一部、一般に1割台程度しか露出していないとされます。都市の大半はいまだ砂と岩の下に眠っており、未解明の部分が多く残っています。

Q5. ベドウィンは今もペトラに住んでいるのですか?

A5. かつては洞窟や墓所を住居として利用していましたが、現在は観光業に従事する人が多く、ラクダやロバの案内、ガイドや土産物販売などを通じてペトラ観光と共存しています。

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