死海南西岸の断崖に築かれたマサダ要塞は、第一次ユダヤ戦争の末期、ローマ帝国に対するユダヤ側の「最後の砦」となった場所である。
荒涼とした砂漠の中で、自由と信仰を守ろうとした人々がどのような選択を迫られ、どのような結末を迎えたのか。
本稿では、マサダをめぐる物語を史実に基づいて辿っていく。
目次
- マサダとは何か ─ 死海を望む断崖の要塞
- ヘロデ大王による要塞化 ─ 砂漠に築かれた避難宮殿
- 第一次ユダヤ戦争とエルサレム陥落 ─ 抵抗の行き着く先
- マサダ包囲戦 ─ ローマ第10軍団の攻城作戦
- 集団自決の記録 ─ ヨセフス『ユダヤ戦記』の証言
- 史実としての限界 ─ 集団自決は本当にあったのか
- 発掘調査が示すマサダの実像 ─ ヤーディンの成果
- 現代のマサダ ─ 世界遺産としての評価と観光地としての姿
- 現代イスラエルでの象徴性 ─ 「マサダは二度と陥落しない」
- まとめ ─ 「最後の砦」が問いかけるもの
- FAQ:マサダに関するよくある質問
- 参考にした主な資料・外部リンク
マサダとは何か ─ 死海を望む断崖の要塞
マサダ(Masada)は、イスラエル南部・ユダヤ砂漠に位置する岩山の頂上に築かれた要塞遺跡である。周囲は400メートル以上の断崖に囲まれ、天然の要塞として古代から注目されてきた。
山頂には宮殿跡、倉庫群、貯水槽、城壁、ローマ軍の包囲陣など、多くの構造物が良好な状態で残っており、2001年には世界遺産に登録されている。

出典:© Andrew Shiva / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0 — Aerial view of Masada
ヘロデ大王による要塞化 ─ 砂漠に築かれた避難宮殿
マサダが本格的に整備されたのは紀元前1世紀末、ヘロデ大王の治世である。ヘロデは政敵や反乱に備える避難宮殿としてマサダを要塞化したと考えられている。
壮麗な宮殿、ローマ式浴場、貯水槽群が整備され、砂漠地帯にもかかわらず長期籠城が可能となる水利システムが構築された。この建築技術は、ユダヤとローマ文化の融合を示すものとして高く評価されている。

第一次ユダヤ戦争とエルサレム陥落 ─ 抵抗の行き着く先
紀元66年、ローマ帝国支配への不満が爆発し、ユダヤ人は反乱を起こした。これが第一次ユダヤ戦争の始まりである。
当初はユダヤ側が優勢となる局面もあったが、やがてローマは大軍を投入して反乱鎮圧に動いた。70年にはエルサレムが陥落し、神殿が破壊されるという決定的な出来事が起こる。
生き残った抵抗勢力の一部はマサダへ逃れ、ここが「最後の砦」となった。マサダにはシカリオ(短剣党)を中心とする住民とその家族が籠城していたと伝えられている。
マサダ包囲戦 ─ ローマ第10軍団の攻城作戦
紀元72年ごろ、ユダヤ属州総督シルヴァはローマ第10軍団を率いてマサダ包囲に着手した。険しい地形のため正面攻撃は困難であり、ローマ軍は山の周囲に包囲壁と複数の堡塁を築き、長期戦を前提とした攻城戦を展開した。
特に有名なのが西側斜面に構築された「攻城ランプ」である。自然の尾根を利用しつつ、土砂と石を積み上げてなだらかな斜面を作り、その上を攻城塔と破城槌が押し上げられたとされる。この工事には膨大な労働力が動員されたと考えられている。
集団自決の記録 ─ ヨセフス『ユダヤ戦記』の証言
マサダで何が起きたのかを伝える主要な文献は、ユダヤ人出身の歴史家フラウィウス・ヨセフスによる『ユダヤ戦記』である。
ヨセフスの記述によれば、ローマ軍が城壁を破り突入を目前にした夜、マサダの指導者エレアザル・ベン・ヤイルは住民たちに対し、奴隷として生きるよりも自由な死を選ぶべきであると訴えたという。
その結果、くじによって選ばれた者が仲間や家族を殺害し、最後の一人が自決することで、およそ960人が命を絶ったとされる。翌朝、ローマ軍が要塞内部に入ったとき、そこには焼け落ちた建物と遺体が残されていたとヨセフスは記録している。

出典:Wikimedia Commons(Public Domain)



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