集められた蔣介石|慈湖紀念雕塑公園

木々の間に、同じ顔がいくつも見える。立っている者、腰を下ろしている者、胸から上だけの者。姿や色は違っても、その多くは蔣介石だった。遠くから眺めると、密集した像がこちらを向いているようで、不気味に感じた。

台湾・桃園にある慈湖紀念雕塑公園。訪れる前は、蔣介石を顕彰する場所なのだろうと思っていた。ところが、像を見て歩くうちに、大学などの名前を記した表示が目に留まった。ここに並ぶ像には、それぞれ以前に置かれていた場所がある。

なぜ元の場所から移され、なぜ処分されずに、ここに残されたのか。不気味さは消えないまま、目の前の一体一体が、どこから来たのかを知りたくなった。

木々の間に立像や胸像が並ぶ、慈湖紀念雕塑公園。

1.こちらを向く像たち

園内の像は、整列して同じ方向を向いているわけではない。木々の間や芝生の上に、少しずつ向きを変えて立っている。手前の像の肩越しに別の顔が見え、その奥にもまた人影がある。一体を見ようとしても、視界には何体もの像が入ってくる。

大きさも姿勢も異なる蔣介石像が、互いに重なるように並んでいる。

軍服姿もあれば、長い衣服をまとった姿もある。帽子をかぶり、杖をつき、椅子に腰かけている。白い像、赤茶色の像、暗い金属の色をした像。大きさも表情も揃っていない。それでも、同じ人物だとわかる顔が繰り返し現れる。その数と密度に、落ち着かなさを覚えた。

訪れる前、私のなかにあった蔣介石像は、「台湾建国の英雄」という漠然としたものだった。彼の統治が台湾でどう受け止められてきたのか、詳しく知っていたわけではない。だから、これほど多くの像が置かれた公園も、その功績を称える場所なのだろうと考えていた。

実際に目の前にすると、まず気になったのは、その集まり方だった。台座の上に一体だけ立つ記念像なら、街や学校でも見慣れている。ここでは、立像の足元に胸像があり、座像の背後から別の顔がのぞいている。一体ごとに眺めるより先に、像の群れとして目に入ってくる。

訪れたのは昼間だったが、夜にこの間を歩いたら怖いだろうな、と思った。像がこちらを見ているはずはない。それでも、いくつもの顔が視界に重なると、見られているような気がした。

その印象を抱えながら近づくと、遠目にはひとまとまりだった像の違いが、少しずつ気になり始めた。

2.台座に残された場所の名前

像を見て歩くうちに、台座や説明板に記された名前が目に留まった。大学など、像が以前に置かれていた場所を示す表示だった。この公園のために一から造られた像が並んでいるのだと思っていた私は、そこで初めて、各地から集められた像なのだと気づいた。

同じ人物をかたどっていても、もともとは別々の場所に立っていた。それぞれの学校や施設で、日々その前を通る人がいたはずだ。ここでは隣り合っている像にも、この場所に来るまでの異なる時間がある。

軍服、長衣、帽子、杖。同じ人物をかたどった像にも、造形の違いがある。

なかでも、あとから来歴を調べる手がかりになったのが、国立中央大学の名前を記した説明板だった。傍らには、手元に書物を広げた座像がある。その場で説明文を細かく読み解いたわけではないが、記録した写真には、大学名とともに寄贈日や以前の姿を写した写真が残っていた。

大学にあった像が、なぜここへ移されたのか。建物の建て替えなのか、像に対する考え方が変わったのか。移す側にはどんな事情があり、受け入れる側は何を残そうとしたのだろう。

表示を見つけても、像の集まりに感じた不気味さが消えたわけではなかった。ただ、同じ顔が繰り返される光景のなかに、一体ずつ違う来歴があることが気になった。公園を離れるときには、その来歴と、これほどの像を集めた理由を知りたくなっていた。

3.その日の夜に聞いた話

公園を訪れたその日の夜、金門島の視察でお世話になった教授から、蔣介石の統治に対する批判について聞いた。弾圧の歴史と結びついた、彼を嫌う人々の存在。功績を称える人物として漠然と捉えていた私には、その話が引っかかった。

昼間に見た像の群れを思い返した。大学や施設に置かれていた像が、元の場所を離れ、一つの公園に集まっている。蔣介石の支配が終わり、行き場を失った像がここへ運ばれてきたのだろうか。教授の話と公園の光景が、私のなかで結びついた。

ただ、それはそのときの推測だった。教授から聞いたのは蔣介石に対する評価の話であり、一体ずつの像が移された事情ではない。その話だけで、台湾の人々が皆同じように考えているともいえなかった。

像を移すという判断にも、時期や場所によって違いがあるはずだった。誰が撤去を決め、誰が引き取り、何を理由に残したのか。私の推測では、その過程が抜け落ちていた。

そこで、撮影した説明板と、公園の成立を記した資料を調べることにした。まず手がかりにしたのは、国立中央大学の名が残る、あの座像だった。

4.像を移す理由、残す理由

国立中央大学から来た座像

撮影した説明板には、「設立機關/國立中央大學」「捐贈日期/民國92年3月18日」とある。西暦に直せば、2003年3月18日。ただし、記されているのは寄贈日であり、大学から運び出された日や、公園に据え付けられた日までわかるわけではない。[現地資料]

説明文には、蔣介石が中央大学の学長を務めていたことも書かれていた。大学の公式な歴代学長一覧で確認すると、その在任期間は1943年から1944年。大学が中国大陸にあった時期のことだった。この座像には、国家の指導者と、その大学の元学長という二つの立場が重なっている。[1]

手元に書物を広げた姿について、説明板は、学長としての蔣介石を意識した造形ではないかと解釈している。ただ、原文には推量を表す言葉が使われており、制作者の意図が確認されているとは限らない。それでも、この像を受け入れた公園が、大学との関係を来歴として伝えようとしていることは読み取れる。[現地資料]

一方で、大学が寄贈を決めた理由や、その決定に至る過程は、今回確認できた資料では特定できなかった。説明板からわかるのは、大学とのつながりと寄贈の記録である。蔣介石への批判が、そのままこの一体の移設理由だったと結論づけることはできない。

像を受け入れる場所をつくる

では、受け入れる側は、何を考えていたのか。

台湾の「國家文化記憶庫」に収録された関係者の回想によると、1997年、当時の大溪鎮長・曾榮鑑と役場の職員たちは、珍しい像や、まもなく撤去・移転される像を収集しようと考えていた。彫刻を芸術として見てもらい、歴史を記録するものとして残すことが、その目的にあった。担当職員の吳清曉は、電話帳を頼りに台湾各地へ公文書を送り、像を集めた経緯を語っている。移されてきた像の背後には、積極的に引き取ろうとした人々がいた。[2]

公園の成立年には、資料による違いがある。交通部観光署の案内は1997年の設立とし、2000年2月29日に最初の像の移転式典が行われたと記す。一方、2018年の中央社報道では、市の管理担当者が2000年創設と説明している。[3][4]

1997年の収集に向けた動きと、2000年の像の受け入れを、公園成立の異なる節目として捉えることはできそうだ。ただし、正式な設置手続きまで確認できていないため、どちらか一方を誤りとは断定できない。少なくとも、資料に現れるのは、1990年代末から2000年にかけて、地元の役場が像の受け皿をつくっていく過程だった。

移したあとも、残すために手を加える

その後の移設方針にも、場所ごとの違いが見える。

2017年、当時の桃園市長・鄭文燦は、政府機関内の蔣介石像について、施設全体の改装などに合わせて慈湖へ移す方針を述べた。一方、軍人とその家族が暮らしてきた眷村や、退役軍人の福祉施設にある像は、歴史や住民の感情を尊重して移さないとしている。この発言では、人権侵害の歴史への反省と、像に寄せられる地域の記憶の双方が語られていた。[5]

集めた像をどう見せるかにも、判断が加わっている。園内にある大きな座像「傷痕與再生」は、その一例だ。2008年の再組み立てを伝える報道によると、芸術家の郭少宗が像と支持構造を組み合わせ、おおよその姿を復元した。元に戻せなかった部分について、当時の桃園県文化局長は、歴史の傷を示すものと説明している。像に残る隙間にも、再展示に際して意味が与えられていた。[6]

再組み立てされた座像「傷痕與再生」。
胸部などに隙間が残り、内部の支持構造が見える。

保存の作業は、その後も続いている。桃園市は2023年にも園内の改修と像の修復を実施し、同年11月に再開を発表した。観光地として人を迎えるために、像と公園の双方へ手が加えられている。[7]

園路や植栽の間に配置された胸像と座像。

こうした経緯を追うと、私がその夜に思い描いた「行き場を失った像が集まった場所」という説明だけでは足りなかった。元の場所から移す判断があり、別の場所で保存し、展示する判断がある。慈湖の光景には、それぞれの時期に、異なる立場の人々が像を扱ってきた結果が積み重なっている。

5.一体ずつの来歴

写真を見返すと、最初に感じた不気味さは、今もわかる。木々の間に同じ顔が重なり、大きな座像の周囲に小さな胸像が並んでいる。近くから撮った一枚では、黒い胸像の頭をカタツムリが這っていた。像の集まりを遠くから眺めた写真と、一体に近づいた写真とでは、目に入ってくるものが違う。

黒い胸像の頭を這うカタツムリ。

資料を調べて加わったのは、その光景ができるまでの時間だった。各地へ引き取りを呼びかけた役場の職員がいた。移す場所と残す場所を分けた判断があり、運ばれた像を修復する仕事があった。私が一度に見渡した像の群れは、そうした個別の行為を経て、ここに並んでいる。

それでも、国立中央大学の座像が、どのような話し合いを経て大学を離れたのかは、まだわからない。説明板にある寄贈日は一つの手がかりだが、その前後にいた人々の考えまでは記されていない。

公園で感じた不気味さも、来歴を知りたくなった気持ちも、どちらも残っている。訪問前の私は、蔣介石を称える場所だろうと思っていた。その夜には、行き場を失った像の集まる場所なのだろうと考えた。どちらも、目の前の光景を説明しようとした、私自身の見方だった。

いま写真のなかで目が留まるのは、像の顔と、その傍らに残された場所の名前である。

草木の向こうに、色も大きさも異なる像が集まっている。

出典・参考資料

現地での記録

国立中央大学寄贈の蔣介石座像・現地説明板
慈湖紀念雕塑公園、2026年8月25日、筆者撮影。設立機関、寄贈日、旧設置時の写真、中央大学との関係について参照。説明板の「民國92年3月18日」は2003年3月18日に当たり、寄贈日として記されている。記録写真は本文の調査資料として使用。
現地説明版記録写真

現地視察および聞き取り
2026年8月25日に慈湖紀念雕塑公園を訪問。同日夜、金門島の視察でお世話になった教授から、蔣介石の統治に対する評価について聞いた。本文では会話の趣旨を筆者の記憶に基づいて要約しており、逐語引用ではない。

公開資料

  1. 國立中央大學校史館「歷屆校長」
    蔣介石(蔣中正)が中国大陸時代の中央大学で学長を務めた期間(1943~1944年)の確認に使用。
    國立中央大學校史館
  2. 好風土文化有限公司「慈湖銅像的故事:銅像園區的歷史」
    國家文化記憶庫収録、建檔單位:桃園市政府。1997年の曾榮鑑・大溪鎮長らによる収集の構想、保存の目的、担当職員・吳清曉が語る各地への寄贈依頼の経緯について参照。
    國家文化記憶庫
  3. 交通部観光署「慈湖」
    公園の1997年設立、および2000年2月29日の最初の像の移転式典に関する記述を参照。
    交通部観光署・日本語公式サイト
  4. 中央社「慈湖陵寢遭潑漆 紀念雕像公園照常開放」
    2018年2月28日、吳睿騏。桃園市の管理担当者による「2000年創設」との説明を参照し、観光署の記述と比較した。
    中央社
  5. 中央社「談二二八 鄭文燦強調記取教訓」
    2017年2月28日、卞金峰。当時の桃園市長・鄭文燦による、政府機関内の像の移設方針と、眷村・退役軍人施設の像を地域の歴史や感情に配慮して残す方針について参照。
    中央社
  6. 自立晚報「全國最大蔣公銅像再現慈湖」
    2008年3月5日、簡榮霖。「傷痕與再生」の再組み立て、芸術家・郭少宗の関与、復元できなかった部分に対する当時の文化局長の説明について参照。
    自立晚報
  7. 桃園市政府「大溪慈湖紀念雕塑公園嶄新開幕 全新水舞燈光秀精彩登場」
    2023年11月4日。2023年の園内改修、像の修復、再開について参照。
    桃園市政府

公開資料の最終確認日:2026年10月3日。

※公園の成立年は資料によって1997年・2000年の記述があるため、本文ではそれぞれの記載内容を示した。国立中央大学像の寄贈決定理由および正確な搬出・設置日は、今回確認した資料では特定できていない。

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