金門の地下には、船が入る。岩盤を掘り抜いた坑道に水路を通し、小艇で兵員や物資を運び込んでいたという。九宮坑道では、その水路に沿って見学用の通路が続いていた。岩肌を照らす明かりと手すりが、水面に映っている。
島に滞在した数日間、私はこうした軍事施設を巡った。翟山坑道では入口の標語に目が留まり、勇士堡では狭い通路を進むうちに、世界各地の地雷標識が並ぶ展示に出た。砲や兵士の人形を眺めながら歩ける場所もあれば、予約の有無を尋ねられ、その先へ進めない場所もある。
まずは、小金門と呼ばれる烈嶼の九宮坑道から、地下に造られた補給路を歩いてみる。
1.九宮坑道――船が入る地下空間
岩肌の天井の下に、水路が広がっている。奥の開口部から外光が入り、水面には岩壁と照明が映っていた。壁際には金属の手すりが続き、その脇を歩けるようになっている。写真の中で上下の岩肌を見分けるには、手すりがよい目印になる。
九宮坑道は、金門本島の西に位置する烈嶼、通称「小金門」にある。別名は四維坑道。1960年代、兵員や物資を小艇で運ぶために掘られた地下施設だ。内部には船を着ける場所があり、海から入った小艇が補給を担っていた。目の前の水路は、そのための通り道だった。
軍事施設としての役目を終えた後、1998年に金門国家公園へ移管され、整備を経て2001年に一般公開された。陸上部分の一部は烈嶼遊客中心として使われ、島の自然や文化、戦史を紹介している。
軍事施設に入って、まず観光案内を受ける。用途の変更は徹底していた。
むき出しの岩壁の前には、大きな地図や写真パネルが置かれていた。足元を照明が縁取り、床には扇風機が立っている。掘削された空間の形を残しながら、そこに観光案内の設備が収まっている。かつて兵員や物資を受け入れた場所が、今は島を訪れる人を迎えている。
金門滞在中には、もう一つの水路を持つ坑道、翟山坑道も訪ねた。二つを振り返ると、より強く記憶に残っているのは翟山のほうだ。内部が大きく感じられたこともあるが、それ以上に、入口で目にした文字が印象に残っている。
2.翟山坑道――入口に残る言葉
翟山坑道の入口には、「毋忘在莒」の四文字が赤く記されていた。その隣には兵士の像が立ち、壁には軍人の姿勢や態度を説く文字が並ぶ。坑道へ入る前から、ここで求められていた振る舞いが目に入ってくる。
「毋忘在莒」を見て、私はこの場所が軍事施設として使われていたことを強く意識した。ただ、その四文字に託された意味を詳しく知ったのは、帰国後に調べてからだった。
意味は「莒にいたことを忘れるな」。中国の故事に由来し、苦難の経験を忘れないという意味を持つ。さらに、領土の大半を奪われた斉が、莒や即墨を残して抵抗し、失地を回復した歴史とも結びついている。蒋介石はこの言葉を、大陸回復を呼びかける訓示に用いた。金門の入口に掲げられた四文字には、苦境から再起するという願いと、海峡の向こうを目指した時代の政治が重なっている。
中へ進むと、岩壁の下に水路が広がっていた。私が歩いた範囲では、九宮坑道よりも空間が大きく感じられた。奥の明るい開口部に近づく人の姿が、壁の高さを際立たせている。
ここも、小艇による補給のために造られた施設だ。水路はA字形に延び、全長は約357メートル。国立公園の説明によれば、42隻の小艇を収容できたという。土砂の堆積によって機能が低下し、1986年に使用を終えた後、国立公園による整備を経て1998年に公開された。
敷地内では、もう一つの標語にも目が留まった。「崇法務實 勤勞儉樸」。金色の文字の下には机とベンチが並び、頭上からは植物が垂れ下がっている。休めそうな場所ではあったが、頭上の言葉はあまり休ませてくれそうにない。
法を尊び、実を務め、勤勉で質素であれ。意味を確かめると、兵士の日常に向けられた言葉であることが分かる。1994年の李登輝総統による国軍向け談話でも、この標語は軍の気風として説明されている。法に従って行動し、訓練や仕事では実効性を求め、生活では勤勉と質素を重んじる。ここでは、戦い方だけでなく、暮らし方にも言葉が与えられていた。
私はこうした文字の多さに、日々目に入る言葉を通して、兵士の行動を方向づけようとする意思を感じた。ただし、現在の姿が軍事使用時のまま残っているわけではない。公開にあたって施設は整備され、集合場や入口の標語などが残された。入口の壁面には塗り直しも行われている。いま見ている景観には、軍の施設だった時代と、それを見学の場として維持する仕事の両方が含まれている。
この水路では、2009年から音楽会も開かれている。岩壁に囲まれた空間の響きを生かし、水上の演奏台に音楽家が乗る「金門坑道音楽祭」だ。私が訪れた8月は開催時期ではなく、演奏を聴いたわけではない。それでも、かつて補給艇を受け入れた水路に、今はチェロや歌声が響くという使われ方は印象に残った。入口の標語を残したまま、この場所には別の用途が加わっている。
3.勇士堡から鐵漢堡へ――地雷を展示する通路
勇士堡の入口は、夏の木々に囲まれた丘にあった。石を敷いた道の先に、赤く縁取られたアーチが口を開けている。周囲の緑に埋もれるような佇まいで、忘れられた場所に来たように感じた。
もっとも、見学先として調べて来た私が言うのだから、忘れられたというのも勝手な話である。
内部の通路は狭く、かび臭かった。低い天井に配線が沿い、照明の下に壁の染みや傷が浮かんでいる。そうした傷にも、つい戦争の痕跡を探してしまう。ただ、目の前の傷がいつ、何によってついたものなのかは分からない。
勇士堡は1949年に小規模な堡塁として造られ、1971年に再整備された。砲座や機関銃陣地、弾薬庫、兵員の居室などを備え、地下の通路が各設備を結んでいた。いま歩いている細い道も、そのような防御拠点の一部だった。
勇士堡は、隣接する鐵漢堡と地下通路でつながっている。その通路を利用して整備されたのが、地雷主題館だ。地雷の種類や歴史、被害などを説明する展示が、堡塁の間に続いている。
とりわけ目に残ったのは、壁一面に並ぶ地雷標識だった。髑髏や交差した骨、赤い三角形。言語や配色の異なる標識が、長い通路の両側を埋めている。文字を読めなくても、近づいてはいけないという意図は伝わってくる。
展示には、地雷の構造や戦争での使用、被害者、除去に向けた取り組みも含まれていた。金門の軍事遺構を歩いていたはずが、通路の壁を見ているうちに、関心は島の外へ広がっていく。さまざまな国や地域の標識を見比べながら、地雷が残る場所では、この図柄が今も人の歩ける範囲を示しているのだと考えた。
長い地雷展示の先には、砲の置かれた部屋があった。車輪の付いた砲が射撃用の開口部に向けられ、二本に開いた脚が室内へ延びている。壁には砲弾の絵と表、赤い文字で書かれた号令が並んでいた。
壁面の表記は「五七戰防砲」。57ミリ対戦車砲を指す。金門県の施設案内にも、鐵漢堡の地下設備として記載されている。弾薬の種類を示す表の隣には、整列や点呼に関する説明まで書かれていた。砲だけを眺めていたときよりも、その周りで複数の兵士が動く場所だったことが具体的に見えてくる。
通路の先では、地雷除去を再現した人形も見た。オレンジ色の服に防護装備を着け、一体は探知器を地面に向け、もう一体は膝をついている。人形の姿勢によって、壁の図解で見てきた作業が、人の身体の大きさに戻ってくる。
鐵漢堡は1971年に造られ、周辺の堡塁とともに金門本島と烈嶼の間の水道を防衛した施設だ。外にはM42自走対空砲が展示されていた。履帯の付いた車体の上に、二本の砲身が並んでいる。
車両の向こうには舗装された道があり、その両側には木が茂っていた。近くには建物も見える。兵器だけを大きく写せば軍事施設の写真になるが、少し引くと、道端に置かれた大きな物体にも見えてくる。現在の平穏の片隅に戦争の記憶が漂っていると感じたのは、こうして周囲の風景と一緒に眺めたときだった。
4.太武山――入口で足を止める
8月22日の午前、私は金門空港からタクシーで太武山方面へ向かった。乗るつもりだったバスが、予定の時刻に来なかったためだ。目的は、山の岩盤内に造られた擎天廳と、地雷除去の歴史を紹介する排雷紀實館だった。
目的地の入口が近づくと、軍人が管理している場所だと分かった。車を止めた運転手から、予約について尋ねられたように記憶している。何のことか分からず、入口にいた軍人にも確認した。施設は基地の敷地内にあり、自由に入ることはできず、事前の予約が必要だという説明だった。
ここへ来るまで、見学の条件を十分に確かめていなかった。後から予約サイトを確認すると、申請できるのは中華民国籍を持つ人に限られていた。私の場合は、予約を済ませれば入れるということでもなかった。
擎天廳は、軍事指揮や集会に使われてきた地下施設である。一方、排雷紀實館は、金門で進められた地雷除去を記録するために整備された展示施設だ。同じように見学先として紹介されていても、九宮や翟山の坑道とは入場の仕組みが違っていた。
私の旅程には入っていたが、先方の予定には入っていなかったようだ。
せめて太武山くらいは見ていこうと思い、周辺へ向かった。
道は閑散としており、車もほとんど停まっていなかった。国民革命軍陣亡将士紀念碑を見て、太武山公墓と忠烈祠を訪ねた。忠烈祠は青い瓦屋根の建物で、正面には金色の文字を記した扁額が掛かっている。
太武山公墓は、1952年、古寧頭戦役で亡くなった国軍兵士を集めて埋葬するために設けられた。忠烈祠では、金門の各戦役で命を落とした将兵を祀っている。坑道や堡塁を歩いた後にここへ来ると、施設の用途を説明する文章に出てきた「兵員」という言葉が、多くの個人を指していたことを改めて意識する。
内部には花輪が並び、国旗が立てられていた。周辺では椅子や装飾も準備されているように見え、何かの式典を控えているのだろうと思った。訪れたのは8月22日。翌日は、1958年の八二三砲戦が始まった日に当たる。ただ、その場で準備の目的を誰かに確かめたわけではない。
その後、太武山へ上がる道に向かった。入口には「玉章路」と書かれた白い門が立っていたが、その下を伸縮式のバリケードが横切っていた。門の両脇には緑色の仮囲いがあり、工事を示す表示も見える。
玉章路は、1954年に軍事輸送のために整備された道で、現在は登山や散策にも使われている。もともと軍のために造られた道を、観光客も歩く。その点では、ここまで訪ねた坑道と通じるものがある。
現地では監視カメラや注意表示も気になった。後から写真を読み返すと、黄色い標識に書かれていたのは、撮影・記録が行われていることと、許可のない車両の進入を禁じる内容だった。歩行者への警告だと受け取った当時の印象とは、少し違う。
この日のバリケードが、工事や行事、あるいは別の管理上の事情によるものだったのかは確かめきれなかった。軍施設の予約条件とは分けて考える必要がある。それでも、その場で先へ進むことを諦めた経験は残った。
白い門の向こうにも、道は続いていた。木々の間へ延びるその先を、ここから見ることはできない。この日に撮った太武山の道の写真は、門の手前からのものになった。
出典・参考リンク
施設の沿革・用途、標語の意味、見学条件について、以下の資料を参照した。リンク名の一部には、内容が分かるよう日本語の説明を添えている。
第1章|九宮坑道
- 金門国家公園管理処:九宮坑道――兵員・物資の輸送という用途、移管と一般公開、烈嶼遊客中心への転用。
第2章|翟山坑道
- 金門国家公園管理処:翟山坑道の建設目的・掘削方法・特徴――建設の背景、掘削方法、水路の規模など。
- 教育部『重編國語辭典修訂本』:毋忘在莒――標語の意味、中国の故事との関係、蒋介石による使用。
- 中華民国総統府:總統在國軍八十二年工作檢討會會場談話(1994年1月18日)――「崇法務實 勤勞儉樸」の意味と、軍の気風としての位置づけ。
- 台湾国家公園主題網:走進地底時光:金門坑道之旅與音樂節――補給用坑道としての用途、移管と一般公開、2009年に始まった坑道音楽会。
- 青年日報:翟山坑道の保存・公開に関する記事――集合場や入口の標語など、公開時に残された施設・景観。
- 金門観光旅遊網:這裡超涼快 來金門避暑吧――入口壁面の塗り直しなど、観光施設として整備された現在の姿。
第3章|勇士堡から鐵漢堡へ
- 烈嶼郷公所:勇士堡――1949年の初建、1971年からの再整備、防御施設としての構造。
- 烈嶼郷公所:景點介紹―地雷主題館(含鐵漢堡、勇士堡)――両堡と連絡坑道を含む施設構成、地雷展示の内容。
- 金門観光旅遊網:地雷主題館――勇士堡と鐵漢堡を結ぶ地下通路の展示施設への転用。
- 金門観光旅遊網:鐵漢堡――地上・地下の設備、展示されているM42と57ミリ対戦車砲。
- 青年日報:烈嶼堅若磐石 感受戰地氛圍――地雷標識、排雷作業の人形、57ミリ対戦車砲など、写真照合の補助資料。
第4章|太武山
- 金門県政府観光処:金門軍事據點參訪系統――擎天廳・排雷紀實館の予約制度、中華民国国民に限る申請条件。
- 金門日報:擎天廳走過風華歲月――擎天廳の建設経緯、軍事施設としての用途。
- 内政部国家公園署:排雷紀實館自103年10月9日起納入擎天廳、明德公園路線參訪!――排雷紀實館の設置目的、展示内容、2014年の開館と見学ルートへの編入。
- 台湾国家公園主題網:太武山公墓・忠烈祠・玉章路の解説――公墓の設置、忠烈祠の役割、軍事輸送道路の整備。
- 金門国家公園管理処:太武山區玉章路登山步道――玉章路の沿革、命名、登山道としての利用。
本稿は、2026年8月の現地訪問時の記録・写真と、各施設の公式案内などをもとに執筆した。標語や展示の印象、現地で受けた口頭説明は筆者の記録による。玉章路入口のバリケードについては、訪問当日の設置理由を確認できていない。施設の公開状況・入場条件は変更されるため、訪問にあたっては各公式サイトの最新情報を確認されたい。


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