金門島と烈嶼を歩いていると、海の向こうに中国大陸が見える。街並みを目で追えるほどの距離に、かつて拡声器で呼びかけ、砲火を交えた相手がいる。北山播音墻の前で聞こえたのは、風に揺れる草の音だけだった。
戦争の痕跡を訪ねる旅にも、バスを待つ時間や、何を頼めばよいか分からない食堂での夕食がある。来ないバスを待った末に大学教授のバイクに乗せてもらい、中国語の注文票に戸惑った店には三日続けて通った。対岸を望む風景とともに記憶に残ったのは、予定にはなかった島の人たちとのやり取りだった。
金門島調査記の第3回は、烈嶼から金門大橋を渡り、北山播音墻と古寧頭戦史館、そして宿近くの食堂へ。戦跡を歩く合間に触れた、島の日常を記す。
1.対岸が見える島
烈嶼で八達樓子から勇士堡へ向かう途中、小高い場所から海の向こうが見えた。対岸は中国大陸だ。海を隔てているとはいえ、思っていたよりも近い。地図の上で位置関係を確認してきたはずなのに、実際に立って眺めると、その距離をもう一度確かめたくなった。
今回の遠征では、当初、厦門へ足を延ばすことも考えていた。最終的には金門と台湾本島を巡る旅になったが、行くことのできなかった側の陸地が、ここからは見える。眺めていると、あちら側からは烈嶼がどう見えるのだろう、と気になった。
地雷主題館の周辺でも、再び対岸を望んだ。軍事施設の内部を見学してから外へ出て、その施設が置かれた場所を海ごと見渡す。すると、展示室で見ていたものが、この風景の中にあったことを意識する。海岸や対岸との位置関係を、自分の立つ場所から少しずつ捉え直していった。
ただ、近くに見えるという感覚だけでは、ここで暮らす人々にとっての対岸との距離は分からない。私が見ているのは、数日間の滞在中に立ち寄った場所からの眺めだ。海の向こうを気にしながらも、目の前の道を進み、次の見学先へ向かった。
島内の移動は、バスと徒歩が中心だった。地図で行き先を確認し、歩き、見学を終えたらまた移動する。そうして烈嶼を巡るうち、対岸の近さとは別に、島の中を自分の足で移動する距離も実感することになった。九宮坑道を訪ねたあと、私は金城へ戻るバスに乗ろうと、烈嶼橋頭の停留所へ向かった。
2.来ないバスと、橋を渡るバイク
九宮坑道から歩き、烈嶼橋頭(后頭)の停留所に着いたのは、午後2時になる前だった。金城へ向かう15Bのバスを待つ。確認していた時刻は14時16分。これに乗れば、大きく歩き回った烈嶼から宿のある金城へ戻れるはずだった。
ところが、時刻を過ぎてもバスは来なかった。
そのまま待ち続けたが、乗ろうとしていたバスが現れることはなかった。時刻表の読み方を間違えたのか、何か事情があったのか。理由は今も分からない。この日は島内を合わせて約16キロ歩いていた。見学先を巡っていた時間に、停留所で待つ時間が重なっていった。
長く待っていたところで、一人の男性に声をかけられた。英語で話してみると、国立成功大学で教えている教授だという。政府に関わる仕事もしていると話してくれた。
私は、金門や烈嶼の軍事施設を訪ねていること、金城へ戻るバスを待っていることを伝えた。話しているうちに、教授がバイクで金城まで送ってくれることになった。
私はその厚意に甘え、後ろに乗せてもらった。綿密とはいえない旅の計画を、初対面の大学教授に補ってもらうことになった。
金門大橋を渡り、烈嶼から金門本島へ向かう。バスに乗れていれば、そのまま通り過ぎていたはずの橋が、この旅では教授に送ってもらった場所として記憶に残ることになった。金城まで送り届けてもらい、長かった烈嶼での一日を終えた。
この出会いには、続きがある。
数日後の8月25日、私は台北で教授と再会し、小籠包の店で一緒に食事をした。注文は教授が中国語でしてくれた。私は中国語がほとんど分からないため、会話はここでも英語だった。
訪ねた場所や台湾海峡の島々のこと、日本の友人のこと、海外の学会のこと。話題は旅から仕事へ、そして兵役の経験にも及んだ。兵役ではどの地域に配置されるのかという話や、8月末に太武山で行われるという軍事セレモニーの話も聞いた。旅の途中で見てきた軍事施設や地名が、食卓で交わす会話の中にも出てきた。
烈嶼の停留所でバスを待っていたときには、数日後、この人と台北で小籠包を食べるとは思ってもいなかった。予定どおりに進まなかった移動が、島を離れたあとにも続く出会いになった。
3.草の音と、描かれた戦争
8月21日、金門本島の北山播音墻を訪ねた。
対岸へ向けて放送するための壁だが、私が訪れたときは静まり返っていた。聞こえるのは、風に揺れる草の音だけだった。
壁の穴をのぞくと、それぞれの奥に拡声器が埋め込まれている。これらが一斉に鳴り、厦門の方へ声や音楽を送っていた場面を想像した。海の向こうまで届かせるのだから、足元では相当な音量だったのではないか。対岸に何を伝えるにせよ、まず近所にはよく聞こえたはずだ。
烈嶼では、海の向こうに見える陸地の近さが気になった。ここでは、その距離を音で越えようとした設備が残っている。拡声器の並ぶ壁を見ていると、対岸が単なる眺めではなく、言葉を届けようとする相手だったことが具体的に感じられた。
続いて、隣接する北山断崖へ向かった。気になったのは、波に削られた崖の形だった。放送壁がすぐ近くにあるだけに、このまま侵食が進めば、いつかその足元まで崩れてしまうのではないかと思った。実際の地盤の状態は分からない。それでも、残された施設を見る視線が、その下にある土へと向いた。
北山を歩いたあと、古寧頭戦史館に入った。
館内には、戦闘の場面を描いた大きな油画が並んでいる。海岸で陣地を築く兵士、爆発の中を進む戦車、地面に倒れた人々。絵の中には大勢の人物が描き込まれ、一枚の中でも目を移すたびに別の動作が見つかる。ガラスケースには銃器や軍服、旗、作戦に関わる文書が収められていた。
ここで扱われているのは、1949年10月の古寧頭戦役である。展示では、この戦いを台湾海峡の両岸が分かれて統治される歴史につながる分岐点として位置づけていた。先ほどまで眺めていた海を、今度は作戦図や戦争画の中で見直すことになった。
その一角に、「大歷史裡的小人物」という展示があった。日本語では「大歴史の中の小さな人々」と添えられている。兵士や住民の名前と、それぞれの経験を紹介するパネルだった。
帰国後に調べると、この展示は2024年の改修で加えられたものだという。それまでの戦役の勝利や軍の働きを中心とする展示に、住民の記憶も取り入れたと紹介されていた。大きな油画を撮った写真と、個人の名前が並ぶパネルを撮った写真。その両方が、私の手元にも残った。[1]
日本人が金門防衛に関わっていたことを知ったのも、今回の訪問で印象に残った点だった。記憶にある名前は根本博だが、その説明を写した写真は残していない。どのような文言だったかまでは確かめられないものの、台湾海峡を訪ねてきた自分にとって、そこで日本人の足跡に触れたことには、不思議な縁を感じた。
戦史館を見たあと、同じ敷地の上部に広がる草地や通路も歩いた。草に覆われた起伏の中に、迷彩塗装の構造物や小さな開口部がある。内部には、写真を並べた展示の一角も整えられていた。
細い通路に入ると、かなり蒸し暑かった。空調の範囲から外れたせいだろうか。壁と天井に囲まれた場所を歩きながら、ここで長い時間を過ごすことを想像した。
この通路がいつ造られ、どの時期にどう使われたのかまでは、その場では分からなかった。それでも、島の暑さの中で勤務し、戦闘に備えた兵士たちのことを考えた。短い見学でさえ暑さがこたえる。展示室で見ていた軍服を着て、この環境で動き続けることの厳しさを思うと、頭が下がった。
4.三日通った食堂
金門での滞在中、宿の近くの「民族小吃」という食堂に、三日続けて通った。
最初に入ったときは、注文の仕方が分からなかった。周囲の客の様子を見ると、注文票に記入して店員へ渡している。仕組みは分かったが、紙に並んでいる料理名はすべて中国語だった。漢字を読めても、どのような料理が出てくるのかまでは分からない。
ひとまず、意味を推測できるものを選んで印をつけ、店員のおばちゃんに渡した。すると、何かを質問された。
聞き取れない。中国語で自分が日本人だと伝えると、おばちゃんは「OK, OK」と、そっけなく応じた。何を聞かれたのか分からないままやり取りを終えてしまい、少し申し訳なく思いながら料理を待った。
出てきたのは、炒飯と、肉や内臓などを野菜と炒めた一皿だった。注文票には「炒滷味」とある。炒飯には卵や肉、細かく刻んだ野菜が入り、もう一方の皿には、さまざまな形の肉や内臓が、ねぎや玉ねぎと盛られていた。
どちらも量が多かった。そして、おいしかった。
注文するときの戸惑いよりも、食べ終えたあとの満足感が残った。翌日、私はまた同じ店へ行った。
今度は海鮮の麺料理を頼んだ。おばちゃんは相変わらず愛想よく話しかけてくるわけではなかったが、親指を立て、うなずいてくれた。その仕草で、注文が伝わったことが分かった。
運ばれてきた丼には、殻付きのエビやイカ、丸い団子、もやしがのっていた。麺は濃い色のスープに沈んでいる。青い模様の器に、エビの赤色がよく映えていた。
この麺が、またおいしかった。翌日も食べたいと思い、結局、三日目も民族小吃へ向かった。
最初の日は、注文票の使い方を知るために周りの客を見ていた。二日目は、親指を立てる仕草に助けられた。三日目に店を訪ねると、おばちゃんがにっこりした。顔を覚えてくれたのだろうか。その笑顔に、初めて注文票を渡したときの気後れが少しほどけた。
中国語が分かるようになったわけではなく、長い会話を交わしたわけでもない。おいしかったから翌日も行き、またおいしかったから、もう一度行った。
金門では、海の向こうを眺め、戦跡を歩き、来ないバスを待った。そうして過ごした数日の終わりに思い出すのは、大きな放送壁や暗い通路とともに、海鮮の麺が入った丼と、三日目のおばちゃんの笑顔だった。
出典・参考リンク
本文中の移動、会話、食事の描写は、筆者の現地体験と撮影記録に基づく。展示の沿革や歴史的背景については、以下の資料を参照した。
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中央社「古寧頭戰史館納平民觀點 呈現多元在地觀點」(2026年2月14日)
2024年の改修で加わった「大歷史裡的小人物」展示と、住民の経験を取り入れた展示方針について。
中央社の記事を読む -
金門國家公園管理處「金門國家公園古寧頭戰史館於颱風過後重新開館,展現新風貌」
古寧頭戦史館の沿革と、改修後の展示を紹介する公式資料。
金門國家公園管理處の公式発表を読む -
開放博物館「古寧頭戰役油畫口述歷史及線上展覽建置執行計畫」
金門國家公園管理處の委託事業による、戦争画と画家の口述史に関するオンライン資料。
オンライン展示・事業紹介を見る -
参議院「参議院議員細川嘉六君提出義勇軍に関する質問に対する答弁書」(1949年11月25日)
根本博らの渡航について、同行者・吉川源三の陳述を収録した同時代の政府資料。日本人の関与を調べる背景資料として参照した。
参議院の答弁書を読む
日本人の関与に関する補足資料
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放送ライブラリー『ザ・ノンフィクション 父は、なぜ海を渡ったのか』番組紹介(2010年8月15日放送)
根本博と、同行した通訳・吉村是二を扱った番組の紹介ページ。参照したのは番組概要であり、本編ではない。
放送ライブラリーの番組紹介を見る -
金門日報「走出內戰框架走向永久和平」(2011年2月17日)
根本博の貢献を大きく評価する記述に対し、研究者の異論を紹介する論説。歴史的評価の幅を確認するために参照した。
金門日報の論説を読む
根本博に関する展示の記述は、訪問時の記憶に基づく。該当展示の写真は残しておらず、説明文の詳細は確認できていない。上記の歴史資料は、訪問時の展示内容そのものを裏づけるものではない。


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